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「幸せ」とは、「手に入れるもの」ではなく「気づくもの」
2016年05月26日
ホームページをリニューアル致しました。リニューアル自体は3月終わり頃から行っていたのですが、本日まで新しいサイトを公開できないという問題が発生しておりました。その期間御覧になってくださった方いらっしゃれば、大変申し訳ございません、ご迷惑をおかけ致しました。
今回は「幸せ」についてお話をしていきたいと思います。
皆さんは「自分の幸せ」について考えたことはありますか?そして「幸せ」とはどこにあると思いますか?
私たちは時として、自分の「幸せ」をなんだかわからず、目の前の「手に入れもの」ばかりを追ってしまう傾向があります。例えば、お金持ちになることが幸せになる方法だと思い、沢山お金を稼ごうとします。または好きな車を買ったり、広い土地を持ったり。確かにそれらは生きていくためにはとても大切なことですが、それだけがすべてではないということです。禅の教えでは「幸せ」とは、「手に入れるもの」ではなく「気づくもの」だと言われています。どういうことでしょうか?では一つの映画のお話を参考にして考えていきましょう。
皆さんは「トイストーリー」という映画をご存知ですか?写真を載せたいのですが著作権の問題もありますので掲載は控えたいと思います(笑) 私も子供の頃は夢中でみていたことを覚えています。
これはトイストーリーというピクサーの映画で、この話は、おもちゃであるウッディは、おもちゃの持ち主であるアンディという少年に愛され幸せな日々を過ごしていましたが、新しいバズ・ライトイヤーというおもちゃが現れてから、アンディの心はバズへ移ります。それを気に食わないウッディがバズにいたずらをするが、予想外の展開になっていきます。最後には二人は仲直りをし、二人共アンディのお気に入りのおもちゃとして幸せ暮らすという話です。
私はこの話が大好きです。この話を「手に入れる」と「気づく」にフォーカスをあてて考えたいと思います。
ウッディは再びアンディのお気に入り座を「手に入れる」ためにバズにいたずらを企てますが、それをみた周りの仲間は彼を軽蔑し、批判します。そして彼は自分が行ったことは反省し、バズと仲良く過ごすことが大切であると「気づき」ます。そしておもちゃの持ち主であるアンディは、最初新しいおもちゃであるバズを「手に入れて」、バズばかり大切にしてしまいますが、彼はウッディとの楽しい思い出を思い出し、古いおもちゃであっても大切にすべきだということに「気づき」ます。
私たちは普段の生活で自分の欲を満たすためにいろんなものを欲しがります。物や財産、地位や名声、色んなものを欲しがります。しかし、新しいものを手に入れても、次の日にはまた新しいものを欲しいと思う感情が生まれます。そしてもし私たちは新しいものを手に入れることができなかった時、ものが手に入らないという悩みが生まれます。それだけで幸せになれると思いますか?
しかしそうではいけないのです。私たちは今あるこの状況のありがたさに気づかなければなりません。
「気づき」があれば、私たちはものを欲しいと思い続けることの先に、迷いや悩みしかないということに気づくことができます。「気づき」があれば、私たちは一人で孤独なのではなく、身の回りの友人や仕事仲間ががどれだけ自分にとって大切な存在であるかどうかに気づくことができます。「気づき」によって自分自身の世界が変わり、私たちは「幸せ」になることができます。
気づくということは仏教においてとても大切なことです。私たちもトイストーリーの彼らのように何が本当に大切なものであるのか「気づく」ことのできる人になりましょう。合掌。 -
諸行無常
2016年04月25日
4月が過ぎ、新生活が始まりお忙しくこの一か月を過ごされた方が多かったのではないでしょうか?
さて4月は桜が咲く季節ですね。誰もがその見事な桜の前で立ち止まり写真をとっている姿をよく目にします。私たちは桜のきれいな花の色を好みますが、それだけがこの桜の魅力ではありません。桜も満開から一週間たてば花びらはすべて落ち、満開の姿は見る影もないほどただの花びらのない木となってしまいます。しかし、桜の木自体は枯れたわけではなく厳しい冬を乗り越え、また来年には綺麗な花を咲かせるのです。
仏教には諸行無常という教えがあります。この教えは世の中のものはすべて永久に続くものはなく、すべてのものは変化し続けるという教えです。私たちの命もいつかは終りを迎えます。しかし、それと同じように、新しい生命が誕生します。その新しい生命も私たちに喜びを与え、桜と同じように努力をし、立派に成長していきます。
辛いことがあり悲しいと思っていた気持ちも、いつかは立ち直ることができます。これもこの世の中が変化し続けるからなのです。つまり私たちは変化することを受け入れなければなりません。私たちはしばしば日常生活の中で、自分のしたくないことに直面すると「面倒くさい」という感情や、悲しい出来事により「ショックで立ち直れない」という感情が生まれます。まさにそれらの感情は、「変化しない」ことにこだわってしまっているのです。それが私たちの「苦しみ」を生む原因となってしまいます。桜が一生懸命に変化し成長していくように、私たちも変化を恐れることなく、変化を受け入れることのできる自分になりましょう。
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花祭り
2016年03月25日
妙見寺では木蓮や梅の花が咲き、少しずつ春の訪れを感じる素晴らしい季節になってまいりました。
今回はお釈迦様の誕生についてお話させていただきます。なぜなら来月の4月8日はお釈迦様の誕生日だからです。
「花祭り」の名前の由来はお釈迦様がルンビニーの花園でお生まれになってことから花祭りと言われるようになったそうです。
今から2500年前、お釈迦様はカピラ国の王子様として生まれました。お釈迦様の母であるマーヤーは六つの牙をもつ白い象が天から下り、自分の中に入っていく夢を見られたあと、お釈迦様を出産されました。象はインドでは高貴な人の乗り物で、白は最上・最善の意味がありますから、最も優れた人ということを白象で表現しているのかもしれません。
お釈迦様は、お生まれになってすぐに七歩進み、右手で天を、左手で地を指差し「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたといわれています。
漢字をそのまま直訳しますと、この世の中で自分が一番えらいんだという訳になりますが、そういう意味ではありません。この言葉は、『自分という存在は誰にも変えることのできない特別な存在であり、その命のまま尊い。』ということが本来の意味です。
しかし、私たちはいつも他人と自分を比べ、誰よりも綺麗になりたい、誰よりも裕福なりたいなどと望みます。そうではなく、例えば花のように、それぞれ違う形の種でも、成長すれば、どの種も綺麗な花を咲かすことができます。私たちも同じで、顔や性格が違うことはその人自身の個性であり、誰もが特別な存在です。
他人と比べるのではなく、自分自身の弱さを認め、他人の生き方を尊重する生き方をすることで誰もが幸せな人生を送ることができます。お釈迦様はこの言葉を叫び、一人ひとりがその命を無駄なく大切にいきるべきであると説かれました。少しずつ少しずつ、仏道を実生活に活かしていきましょう。合掌。
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Vandana Ti-sarana
2016年02月25日
今月はハワイ島ヒロのお経についてお話させていただきます。
ハワイのほとんどのお寺では、日曜礼拝や葬儀などで「Vandana Ti-sarana バンダナ ティサラナ」をお唱えします。「Vandana バンダナ」とはブッダへの敬意や忠誠を表し、帰依文としてお唱えします。「Ti-sarana ティサラナ」は、仏法僧の三宝(仏様・仏様の教え・教えを守る僧たち)への帰依を表します。日本でお唱えします「三帰依文」と同じ意味で、サンスクリット語・英語・日本語の3つの歌詞を唱えます。これは普通のお経とは違い、賛美歌のような曲です。パイプオルガンを使って歌う時もあります。最初は私も驚きましたが、毎朝お唱えしておりますととても心地が良いです。同じお寺ではございますが、場所が変わればその地独自のやり方がありとても興味深く学ばせていただいております。合掌。
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フェンス
2016年01月30日
新年明けましておめでとうございます。昨年亡くなられた方には心よりご冥福を申し上げます。
一月は全国的に大寒波がやってまいりました。妙見寺も雪が降り、地蔵さまは大変寒そうなお顔をされておられました。いっそ寺の中へお連れして暖かいお茶を飲んでいただきたいものですね。
今月は古いフェンスを塗り直し、カバーを取り付けました。上からの落ち葉でお墓参りの方にご迷惑をおかけしておりましたが、これで多少はお墓参りしやすくなったかと思います。合掌。