妙見寺について

当山の沿革

推古天皇六年(五九八)蘇我馬子の創建と伝えられ、七堂伽藍を備えた大寺であり、河内の国最初の霊場である。
南北朝の乱の兵火で被害を受け焼失するが、寛文年間(一六六一~一六七三)祖浄悦によって再興され、真言宗から曹洞宗に改宗。明治に入り廃仏毀釈運動の煽りを受け、明治六年(一八七三)廃寺となった。
しかし、鎌田誓由らが明治十三年(一八八一)に現在の地に妙見寺を再興し、現在に至っている。
また、南北朝の乱の際、本坊を始め七十二坊伽藍被害を受けたが、不思議なことに観音および妙見の二堂は境内の真ん中にありながら、一点の火も移らず焼失を免れたと伝えられている。
以来、「火伏せの妙見寺」として今日も残っている。

概要

宗派 曹洞宗(禅宗)
山号 天白山
寺院名 妙見寺
本尊 十一面観世音菩薩
開山 蘇我馬子(推古天皇六年)五九八年
本山 永平寺(福井県)、總持寺(神奈川県)
住職 畑 辰昇

開山・本尊・寺宝紹介

開山 蘇我馬子(そがのうまこ)

蘇我馬子は飛鳥時代の豪族。摂生・皇太子となった聖徳太子と共に政治の中枢となり、初の女帝である推古天皇を擁立した。崇仏派(仏教受け入れ派)であった馬子は廃仏派(仏教反対派)の物部氏を滅ぼし、仏教が日本に広まるきっかけを作った。

本尊 十一面観世音菩薩立像
(じゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)

本尊の十一面観音立像は十一の顔を持ち、それらを四方に向け、救いを求める人々を常に見ている。深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す観音菩薩。密教の尊格であり、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすといわれます。当山の十一面観音は、奈良にある真言宗豊山派の総本山「長谷寺」の十一面観音様と同木といわれている。 春日佛師作。

難陀龍王立像(なんだりゅうおうりゅうぞう)

海や水をつかさどることから航海の守護神や雨乞いの本尊とされる八大竜王の一つです。ナンダは「歓喜」という意味で人々の願いに応じて風雨を調えるといわれます。

雨宝童子立像(うほうどうじりゅうぞう)

福を得て災いを除くという。頭上に5輪塔を載き、右手で金剛宝棒を突き立て、左手に宝珠を捧げ持って立つ童子形の姿で表わされ、神仏習合によって日本で創作された尊像である。
真言系の両部神道では大日如来の化身とし、また日向に下生した天照大神の姿とされています。

北辰妙見大菩薩(ほくしんみょうけんだいぼさつ)

中国で北極星を神格化して生まれた妙見寺信仰の象徴であった妙見菩薩。
童顔の武将仏で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物)に乗り、唐服を着、剣を持つ。

柏巖獨丕大和尚像(はくがんどくひだいおしょうぞう)

妙見寺が曹洞宗に改宗した時の開山様。
輪王寺(仙台にある伊達家九代目政宗夫人の菩提寺)の二十三代目住職。

紀吉継墓誌(国重要文化財)
(きのよしつぐのぼし)

日本に19しかない数少ない古代墓誌の一つ。墓誌とは石・専(せん)・金属に故人の姓名・経歴・没年などを記して墓に納めたもの。
陸奥守鎮守副将軍紀広純の娘、吉継の墓誌(七八四年)。
現在は大阪市立美術館に安置。

采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)

持統三年(689)天武朝の大弁官であった采女竹良(うねめちくら)が朝廷からもらった古代の墓域を示す石碑。
上の資料は拓本(石や金属に彫られた文字や模様を、原形のまま紙に写し取ったもの)であり、現物は古くから妙見寺が保有していたが、明治時代から不明となっている。

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